波佐見の地で「陶磁器xカルチャー」を紡ぐ企業を取材

レトロでカラフル、絶妙なサイズ感とスタッキングが可能なデザイン。
2010年代に登場する、ライフスタイルショップを中心に人気を博し、波佐見焼の名を知らしめることとなった「HASAMI」。
そのHASAMIを手がけているのが、有限会社マルヒロです。
地域の作り手とチームを組んでモノづくりを行う工場を持たない陶磁器メーカー、食器やインテリア雑貨を企画するプロデューサー、産地商社、様々な肩書を持つ企業。
マルヒロの名は今や全国的に知れ渡っていますが、そのポジションにたどり着くまでに、祖父・父・孫、3代それぞれの時代の苦労と努力、そして決意がありました。
マルヒロの歩んできた道、そしてこれからの想いを、三代目である代表取締役社長、馬場匡平氏にお伺いしました。


露天商から始まったマルヒロの事業
マルヒロは、焼台として下に敷く窯道具「ハマ」を生産する工房として、馬場氏の祖父である広男氏によって創業されました。
その後、ガサものと呼ばれるワケアリ品を仕入れて販売する、「ガサ屋」と呼ばれる露天商へと転換。
経験と実績から、露天商組合の組合長に就任し、目利きを生かして商品を窯元から集め、露天商に卸す仕組みを確立させました。
先代である父、幹也氏(現会長)が家業に加わったのは30年前。
祭りが減り露天商の商いが激減したこともあり、新たに百貨店問屋と取引をスタートさせ、催事場などでのB品販売市の販路を拡大します。
しかしバブル崩壊の影響、波佐見焼生産の効率化や品質向上が進み、マルヒロの主力商品だったガサものやB品そのものが激減。
事業存続の危機を迎えます。
そこで2000年、先代は思い切った決断を下します。
“ガサもの“から”A品“へと主力商品を切り替える。
誰も試みたことのない、前代未聞ともいえる方向転換でした。
「つなぐ」を遂げた先代 ~時代の波を共に乗り越えた父と仲間~
この思い切った方針に、協力の手が挙がったのは100軒中、わずか5~6軒。
中尾山地域を中心とした職人たちでした。
くしくも当時、「白磁が美しく、技術力が高い」と評判だった波佐見には、企業系のノベルティを建築家やデザイナーに依頼が多くあったことにより、職人たちの技術力は格段と向上していた時期でもあり、卓越した技術と同じ志を持つ職人たちとの、A品生産販売が始まります。
当時、波佐見焼という名ではほとんど出回っていなかった状況の中、認知度を上げるため、先代はギフトショー出展を目指します。
既存商品を仕入れて販売することが主流だった中、窯元が持っている型を使ってデザインを考案するために、デザインができる人材を採用。
職人、デザイナー、自身でチームを組んで半オリジナル開発に着手し、2002年に「洒落陶(しゃれとう)」というブランド名で商品を発表したのです。
「先代と職人のおっちゃんたちは、今の波佐見に繋がったとてつもなく大きい存在」という馬場氏。
時代を読み、途切れることなくスムーズに事業移行をしてきたこと。
人も事業も「つなぐ」ことができた先代の偉大さは、計り知れない。
マルヒロは、HASAMIでブームを巻き起こしましたが、第一次波佐見ブームは間違いなく先代と仲間たちの時代に作られたといいます。
そして、協働する職人やスタッフを、親しみを込めて「おっちゃん」「○○ちゃん」と呼んでいる馬場氏の姿から、先代の繋いだバトンはしっかりと受け継がれていることがわかります。

厳しい経営状況の中での帰郷
そんな馬場氏が地元に戻ったのは2008年の5月。
インテリアショップ、パン屋、アパレル、エレベーター設置など様々な業種で勤務後、ある日突然、
先代に呼び戻されることになります。
やきものを知らないところからのスタートでした。
幸いなことに、先代と職人仲間たちから教えてもらえる環境にいたため、作り方から考え方まで様々なことを学んだといいます。
取引先への挨拶から始まり、その二か月後には半オリジナル商品を手に、営業回りをしますが、なかなか買ってもらえない焦り。
そして営業先で取り出した商品を、鞄に梱包することにも慣れていなかったため、色々な意味で焦りは相当なものだった、と馬場氏は笑いながら当時を振り返っていいます。
経営的にも厳しい状態が続き、事業を畳むことがちらつき始める中、たまたま先代が出会った1冊の本が、マルヒロの運命を変えます。
それが、中川政七商店の現代表取締役会長である中川淳氏が書いた書籍でした。
その本を読んだ二人は、相談して中川氏に協力を仰ぐことを決めたといいます。
出会いと転機
2009年、親子二人で奈良まで出向き、中川氏と対面。
会ってすぐに、先代は「あとは息子と話してください」とその場を後にし、2年の契約期間中、中川氏との仕事に一切口を出さなかったといいます。
中川氏から出された最初の宿題は、ビジネス本2冊を読んでの読書感想文の提出でした。
そしてその後、経営に対する考え方、現状分析、数字の見方などを徹底的にたたきこまれることとなります。
会社を車で例えると、モノを売ることは「前輪、お金を回収することが「後輪」である。
その前後輪のバランスを、通る道ごとに変えていく。
中川氏から様々なことを学びながら、当初の目標であった「新ブランドを作る」という言葉通り、1年後の2010年、ブランド「HASAMI」を開発、波佐見焼として初めて中川政七主催の展示会で発表します。
展示会ではあまり評価を得られなかったものの、東京での展示会などを機にメディアにも取り上げられ、ライフスタイルショップなどで取り扱われるようになり、次第に注目を集め大ヒット商品となります。


HASAMIからの歩み
HASAMIの大ヒットで経営危機を乗り切ったマルヒロ。
中川氏との2年目は、プレゼン形式となり、やりたいことや作りたいものを発表する、というやり方に変わりました。
女性デザイナー、2軒の窯元、素地屋、型屋、とマルヒロでチームを組み、商品開発を行うようになっていきます。
「いまの商人は一つの商品ができあがる工程を知らなさすぎる。できたものを仕入れて、好き嫌いを決めるだけ。
『なにか作ってほしい』と作らせて、できたものを持って帰り、フィードバックを持ってくる。知らないがゆえに、不必要なやり取りが多く発生するんだ。全部知っておいたほうがいい」
馬場氏は全部の工程を理解するために、分業制である波佐見のそれぞれの職人たちを訪れ、話を聞くために毎日回ったといいます。
工程を理解し、作り手たちと話をすることで見えてきたこと。
買い手が価格を決めるのはおかしい。
関わる全ての人達に利益を還元できる価格で卸せるような仕組みを確立させる。
次の10年で価格に対する業界の意識を変える、そう決意した氏が取り組んだ一つが、取引先の卸値に対する意識変革でした。
「マルヒロは一律同じ掛け率で卸す」
マルヒロの掛け率は、安く仕入れることが常態化していた問屋にとっては、比べ物にならないほどの高い提示でした。
それは「問屋を通さない。今までの顧客にはマルヒロの商品は卸さない」という無言の宣言でもあったといいます。
その決意は、今まで取引のあった顧客との決別でもあり、実際それを境に顧客の層はがらりと変わることとなるのです。
2017年からは、自社で東京原宿のギャラリーで展示会を行うようにもなり、アーティストx波佐見焼の技術力、カルチャーに敏感な人たちをターゲットにしたオリジナルやコラボ商品を次々と生み出し、10年後の2018年には、売上が3億を超える企業へと成長させます。


頼れる仲間たちと共に
現在のスタッフ数はパートさんも含め20名ほど。
商品開発、新規商談、新プロジェクト、店舗運営の中での「やる・やらない」の判断は部門長に任せる。
それぞれが考えるポリシーが「マルヒロ」であるという考えの下、各部門の責任者に裁量権を持たせ、役割を担ってもらい、月一回の全体会議で、各担当者が売上と売上予算を発表する、というのがマルヒロの方針です。
ただしOEMなど商品開発に際しては、取引の前に必ず依頼主に出す条件があります。
まずは波佐見に来てもらうこと。
作り手を訪れ、話を聞く。そして自分たちが誰と仕事をするのかということを理解してもらうということが目的です。
この条件だけは絶対譲れないもので、依頼主と作り手の間で、お互いのバランスを取るのが、マルヒロの役割だといいます。

波佐見にイカした場所を作る
「色々なことを経て、いま色々な人たちと組んで挑戦できることは楽しい。
楽しいことはたくさんあるが、腹いっぱいで寝落ちして、元気よく朝起きれたときが一番うれしい。『うれしい』は身近にあると思えるようになった」と、大きな笑顔を浮かべて言う馬場氏。
次の世代のことは考えるものの、必要ではないものを残すのは酷だと考えています。
上手に残るなら、選択肢の一つとして残しておきたい。しかもそれを文化として、使えるものとして残しておく。
自分たちの子供が、一度故郷を出たとしても、街にイカした公園がある、ということを胸に、誇れる、場所・モノ・コトを波佐見に置いておきたい。
そんな思いで作り上げたのが、約1000坪の土地に作り上げたHIROPPAです。
2021年に設立されたこの場所でには、ステージ併設公園、コーヒースタンド、マルヒロショップ、オフィスエリアがあり、人や文化が集まれる場所として、コンサートやイベントなども行われています。

自身にとってのやきものとは
「命を救ってくれたもの」そう言い切る表情は、色々なことを乗り越えてこられたからこそのものでした。
経営がギリギリだった会社がここまでやってこれたのは、やきものという生業を通して、色々な人と仕事ができ、すごい人たちとモノづくりができたおかげだといいます。


父親や職人たち、地元の大手企業の先代、そしてマルヒロにいるスタッフ、多くの人々が波佐見焼の発展を推し進めるために尽力したこと。
そして馬場氏と同世代が同タイミングで事業継承をしたことで、波佐見焼がブランドとして一斉に出始めたこと。
素晴らしいタイミングで産業の転換がうまくかみ合い、どれが欠けていてもうまくいっていなかったと感じています。
そして全てがうまくいっているわけではなく、交代できる要員が少なくなっていることも、いまの現実問題としてあります。
5年後は、他の陶産地と同じ課題を抱えていることになるだろうという馬場氏。
波佐見の地に人が集まれる場所やモノ・コトを作ることで、地域に還元し、窯業だけではなく、波佐見という街をモノづくりや人材を残していく。
プロデューサー、商社、何足ものわらじを履きながら、次世代を見据え、枠にはまらないスタイルで進み続ける産地商社マルヒロ。 課題はあるものの、多くの人々と関わりを持ち、引き寄せながら新しい世界をきっと楽しく現実化されていくだろう姿が想像できる、そんな取材となりました。

企業情報
有限会社マルヒロ
〒859-3702 長崎県東彼杵郡波佐見町湯無田郷704-1
TEL: 0956-56-7326
HP: https://www.hasamiyaki.jp/